最近、施術中に、経営者や管理職のお客様から若手社員との接し方について伺うことが増えました。
「注意しなければいけないけれど、言い方によってはハラスメントになる」
「自分たちが若い頃に受けてきた指導は、今はできない」
職場も立場も違う方から、似たようなお話が出てきます。どう接すればよいかという相談もありますが、話しているうちに「なぜ、こちらばかり気を遣わなければいけないのか」という苛立ちが出てくることもあります。
ある経営者のお客様から、こんな出来事を伺いました。
その方の会社で、40代の管理職が20代前半の男性社員と面談をしたそうです。最近、欠勤があったため、どうしたのかと尋ねると、本人が堰を切ったように泣き始めた。
「彼女と別れて」
それを聞いた管理職も、報告を受けた経営者の方も、言葉が出なかったといいます。
「落ち込んでも仕事は休まない。それが私たちの感覚ですよね?」
私はそう聞かれました。
その面談で、何が起きていたのか
管理職は、仕事を休んだ理由を確認しようとしていたのでしょう。欠勤があれば、その日の担当を変えたり、ほかの社員に仕事を頼んだりする必要があります。
そこで「彼女と別れた」と聞けば、「その理由で休むのか」と呆れてしまう。お話からは、そんな様子が伝わってきました。
一方、泣きながら話した本人は、それほどつらかったことを分かってほしかったのかもしれません。
管理職が聞きたかったことと、本人が分かってほしかったことが、そこでずれてしまったように思います。
私は、別れたことは、一つのきっかけだった可能性もあるのではないかとお答えしました。
それ以前から何かを抱えていて、どうにか仕事には来ていた。そこに別れが重なって、保っていたものが崩れてしまった。そういうことも考えられます。
もちろん、本人に会っていないので、実際のところは分かりません。別れそのものが、それだけ大きな喪失だった可能性もあります。
ただ、「彼女と別れた」という一言だけでは、その人がどのような状態でその日を迎えたのかまでは分からないと思ったのです。
「ぎっくり腰、やっちゃったよ」
身体の話に置き換えると、少し想像しやすいかもしれません。
例えば、普段は前向きで、忙しく仕事をしている経営者の方が、こんなふうに来院する場面です。
「いやあ、ぎっくり腰やっちゃったよ。床のものを取ろうとして、変な姿勢になってさ」
話し方は明るくても、腰をかばってゆっくり座る。ご本人は「取り方が悪かった」と、痛くなった瞬間を説明されます。
そこで、それ以前の生活も伺ってみます。
仕事が立て込んでいなかったか。
睡眠は取れていたか。
前から腰が重い、張っているという感覚はなかったか。
すると、「そういえば、このところ休めていなかった」「腰は少し気になっていたけれど、仕事はできていた」と、直前の動作以外の話が出てくることもあります。
ぎっくり腰の原因を、すべて疲れの蓄積で説明することはできません。それでも、最後に取った姿勢だけを見ていると、その前から続いていた負担を見落としてしまいます。
堤防の決壊にたとえるなら、最後に降った雨だけでなく、それまでにどれくらい水がたまっていたかも考える、ということです。
「変な姿勢をした」
「彼女と別れた」
どちらも、きっかけとしては説明しやすい出来事です。でも、それだけで、それ以前の状態まで分かるわけではありません。
急に動けなくなったり、面談で泣き出したりしたとき、周囲には突然のことに見えます。本人も、そこで初めて、自分が思っていた以上につらかったことに気づくのかもしれません。
苦手な負担が、違うのかもしれない
こうしたお話を伺っていると、世代によって、苦手な疲れの種類が違う可能性もあるのではないか、と考えます。
仕事量が多いことには対応できても、人にどう伝わるかを考え続けることには、ひどく疲れる人がいる。
忙しくても役割がはっきりしていれば動けるけれど、自分がどう評価されているのか分からない状態が続くと、つらくなる人もいるでしょう。
ここでいう疲れには、身体を使った疲れだけでなく、気を遣い続けることや、不安を抱えたまま過ごす負担も含めています。
育ってきた環境や、仕事を覚えた時代が違えば、慣れている負担も違うのかもしれません。自分には当たり前だった我慢が、相手には大きな負担になる。その逆もあるはずです。
ただ、これは世代ごとの特徴として確かめられた話ではなく、私が施術中のお話から考えていることです。年齢だけでなく、立場や経験、生活環境による違いも大きいでしょう。
「昔の人は強かった」「今の若い人は弱い」で整理するより、何に疲れ、どこで持ちこたえにくくなっているのかを考えたいと思います。
五行論から、考えること
東洋医学には、身体の働きと感情を関連づけて捉える考え方があります。
五行論では、怒り、喜び、思い悩むこと、悲しみ、恐れといった感情を、身体の働きと結びつけて考えます。ここでいう身体の働きは、現代医学の臓器とそのまま同じ意味ではありません。
私はこうした考え方に触れると、苛立っている人と、悲しみで動けなくなっている人を、単純に「強い人と弱い人」として見なくてもよいのだと思います。
何を負担に感じ、それがどんな形で表れているのか。
身体の状態と、感情の動きはどう関わっているのか。
その問いから見直すことができます。
時代によって生活や人間関係が変われば、日常的に受ける負担も変わるでしょう。その結果、施術の場で目にする疲れ方や感情の表れ方にも、変化があるのかもしれません。
五行論で世代を分類したいわけではありません。むしろ、同じ「疲れている」という言葉の中にも違いがあることを、考える手がかりにしています。
話しているお客様ご自身は、どうだろう
そして、私が施術の場で確かめられるのは、今、目の前にいるお客様の状態です。
部下がなぜ泣いたのか、なぜ休んだのか。それは、この場では分かりません。
でも、そのお話をされている方が、最近眠れているか、首や肩がつらくないか、休みの日に何かを楽しむ余力があるかは、伺えます。
「自分だって、つらくても働いてきた」
その言葉を聞くと、これまで仕事を続けてこられた経験と同時に、その方が我慢してきたことも気になります。
相手の事情を聞き、言葉を選び、仕事を調整する。それを毎日続けながら、自分の疲れは後回しになっていないでしょうか。
普段なら「何があったの」と聞けるのに、その日は「またか」としか思えない。
相手に困るところがあることと、自分にも余裕がないことは、同時に起こります。
部下が泣き始めた背景に疲れがあったかもしれないのと同じように、それを受け止められなかった管理職の側にも、疲れがたまっていたのかもしれません。
人にやさしくできないとき
これは、職場だけの話ではありません。
帰宅して何か頼まれたときに、「今じゃなきゃだめなの」と強く返してしまう。
家族が「疲れた」と言うと、「こっちだって」と自分の大変さを説明したくなる。
大切な人の話なのに、早く終わってほしいと思う。
あとで考えれば、もう少し違う言い方ができた。それでも、そのときには余裕がなかった。
そういうことが続くなら、「もっとやさしくしなければ」と反省するだけでなく、自分がどんな状態で一日を過ごしているかも確認したいところです。
寝不足ではないか。
痛みを我慢していないか。
休んでも、次の仕事をこなせるところまでしか戻っていないのではないか。
相手のことを落ち着いて考えられないとき、自分の身体にも負担がかかっている可能性があります。
身体をみることから、余裕をつくる
当院では、そうした毎日の過ごし方も伺いながら、身体に触れ、張りや動き、刺激への反応を確かめて施術を進めます。
施術を受ける時間が、普段は後回しにしていたご自身の疲れに気づく機会になることもあると思います。
鍼灸で職場の問題や価値観の違いがなくなるわけではありません。ただ、身体のつらさを和らげることを目指し、自分の状態に向き合うきっかけをつくる。そのお手伝いはしたいと思っています。
体調がよく、気分もよいときには、相手の話をもう少し聞いてみようと思えることがあります。
必要なことを、強く当たらずに伝える。
その場で結論を出さず、少し時間を置く。
自分だけで抱えず、誰かに相談する。
余裕があれば、対応の選択肢も増えます。
もっと元気に働きたい。
人との会話や、仕事の手応えを楽しみたい。
できれば、機嫌よく一日を終えたい。
そうしたことも、身体を整える大切な目的です。
人が思いがけないところで崩れたとき、そこに至るまでの疲れがあるかもしれない。
その人に苛立ち、やさしくできなくなっている自分も、疲れているかもしれない。
施術中にそうしたお話を伺うとき、私は両方のことを考えています。
誰かのことを考える時間が多い方ほど、ご自身の身体を確かめる時間も取ってみませんか。鍼灸が、少し余裕を持って働き、人と接するためのきっかけになればと思います。
鍼灸マッサージ院 元!
鈴木元海